壹佐流の由来

 

壹佐流の流祖は佐々木三郎盛綱と伝えられている。

 

壹佐流の開祖は佐々木三郎盛綱の末裔と称する北庄の住人、佐々木常利である。

 

 壹佐流の中には、蹴りを得意とした勝田光左衛門の一派と突きを得意とした木梨儀太郎正宣などがある。坂手孫之丞や金房富貴、などがいる。弓削、柵原、美作、久米南、など多方面に伝承されていたが明治三十年ころから衰退し始めた壹佐流は木梨儀太郎正宣の流れで安井信造は黒住教の関係で安藤重郎兵衛愛親に師事し伝を受ける。佐々木集益常利、佐々木佐傳常一、木梨儀太郎正宣、安藤重郎兵衛愛親、安井信造、永瀬恵吉、永瀬亀蔵、星島伸二に伝承されている。

 壹佐流は棒は五尺三寸、半棒は四尺二寸、小棒は一尺七寸、体術四十本、棒術四十本、術は異国の莪桂仙より伝えられた法でこれを用うる者は日本に三家しかないという。

 

佐々木三郎盛綱。仁平元年(1151年)の生まれ。

 

鎌倉初期の守護。宇多源氏を称する近江の豪族、佐々木秀義の第三子で通称三郎といった。母は源為義の娘である。

 

 仁安元年(1166年)伊豆に赴いて源頼朝に仕え、治承四年(1180年)の石橋の合戦で源頼朝と平家の大庭影親とが戦って源頼朝が大敗した。寿永三年(1184年)には源範頼(源頼朝の弟)に従って木曽義仲を討ち、さらに平家を西国に追討した。同年十二月、備前の児島において、部下十五騎を率い藤戸海峡を馬で渡り、平家を打ち破って先陣の巧名をたてた。

 

 功績抜群であるとして、「昔より河水を渡すの類は有るといえども、馬で海浪を渡すのは未だ聞かぬ。盛綱の振舞は希代の勝利なり。伝久」という感状を与えほめたたえた。

 

 盛綱は、この、戦功により左兵衛尉ににんぜられるとともに、頼朝から備前の児島をもらい、伊予、讃岐、越後、上野の守護となっいた。正治元年(1199年)に頼朝が歿すると、入道して西念と称し、上野国磯部に一旦は隠居したが、建仁元年(1201年)、将軍・頼家の命令で越後の城資盛を討った。健保六年に群馬県下で没、六十二才、その墓と称するものも諸所に伝えられている。(高橋彪氏による)

 

壹佐流の開祖は佐々木三郎盛綱の後裔と称する北庄の住人、佐々木集益常利である。

 

 

 

 勝田藤松・勝田光左衛門は共に武名は近郷に鳴り響いた。勝田家には、棒が長押に掛けてあるが光左衛門は、長押の棒を手で取ったりしない。ヤッと気合諸共足で跳ね上げてから手に取るのである。いざ敵来襲の時に爪立をして棒を外したりしていては、胴が隙いて了う。又、六畳の間一杯の棒を四隅を利用して眼にも止まらぬ程エイエイと自由自在に振り回した。又、着ている着物の右の袖口から左の袖口に紐(ひも)を通さして、その紐の両端を二人に持たせて置き、気合一声、美事に紐丈けが二人の紐持ち人に残っているという所謂縄抜けの神技をやつていた。

 

 木梨儀太郎正宣には土壁を拳で打ち抜いたと言う逸話が残っている。

 

安藤重郎兵衛愛親・安藤亦四郎親孝、親子二人とも、黒住教に入って県北部の布教活動、教会の建設などを総て任されていた。二人とも霊力の持ち主であつた。壹佐流の免許取りで不思議な技を使った。 安藤亦四郎親孝は他にも初実剣理方一流の免許を大山瀧水から受けている。

 

 安井信造は黒住教の布教を手伝っていた事もあり、いろんな場所で武術交流をしていた。黒住教の中で安藤重郎兵衛愛親に師事し壹佐流を習い免許を受けている。秋山家に招かれ恵吉や門人に指導していた。

 永瀬恵吉は幼少のころから武術を好み安井信造に師事し壹佐流を学び免許を受けている。恵吉は、一畳の周りに畳を立てて畳で蓋をしてその中で棒を振り廻した。又、恵吉の住んで居たところは、漁師が多く住みそこで、漁師に身体を縄で縛らせるが一瞬で縄から抜けてしまう。何度、誰が縛るても同じである。骨接ぎ、捻挫、腰痛、ぎっくり腰など何でも揉み解して直してしまう。四方から人々が遣って来ていた。

 

片山潜の伝記の中に、彼の祖父は、壹佐流の免許取りであった。彼は若い時、六人の相撲取りと力試しをした。かれを、上向きに寝かし各手、足、頭、胴を精一杯の力で押さえて居るのに苦のなく起き上がった。畳の上に手のひらをピッタリと付けているのを誰も動かし得なかった。また、筋骨を違えた時は、直ちに、揉み直した。壹佐流にも、亦腹の練習がある。即ち此流儀では、随分盛んに下腹を蹴る稽古を行なう。腹蹴りの稽古をやる時は、必ず二寸厚みの胴板の上に割り竹を編み付けた胴巻きを付けてお互いに蹴りあう。又、五尺や六尺の高さを蹴る練習をする。上達すれば八畳室の天井を蹴れるようになる。

 

壹佐流棒術の由来

 我天狗仕合其鑓二切被折ラレ五尺三寸ニテ遣亦是切被折ラレ四尺壹寸半棒ニテ遣亦是切被折壹尺七寸十手ニテ遣終天狗左羽撃落死入勝其技ヲ工夫シ編シタ出